藤金富士塚
従来この富士塚は古墳時代後期の古墳として取り扱われてきましたが、
昭和六十年に鶴ヶ島市教育委員会が行った調査などの結果から古墳ではなく富士塚であることがわかりました。
富士塚は江戸時代から明治時代にかけて流行した代表的な民間信仰「富士講」の象徴であり、その起源は富士講の行者の記念碑として安永年間に築造したものといわれています。
富士山の形に似せた塚を築き木花之開耶姫命を勧請し、中腹に御嶽山、麓にお胎内の洞穴等まで造ったもので、現地に行けない人も恩徳を受けることが出来るようにと造ったものです。
市内の富士塚は、現在数基しか残っておらず、この富士塚は中でも際立って大きなもので、富士塚関係の古文書や民俗資料が併存するのもこの富士塚だけです。
江戸〜明治にかけての庶民の山岳信仰の遺物として、民俗・歴史的観点から貴重な遺産であり文化財として永く保存、活用していく必要が有ります。
東西長約十四米 南北長約十四米 高さ約四米
昭和63年3月
埼玉県 鶴ヶ島市
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