吉見百穴
「百穴」の名が文献にみられるのは今から二百年位前で江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ不思議な穴として興味をもたれていたと思われます。
「吉見百穴」が科学的に検討されだしたのは明治になってからで内外の著名な考古学者により調査が行なわれ横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表されました。
明治二十年坪井正五郎博士により大発掘が行われその結果人骨・玉類・金属器・土器等が掘り出され横穴の性格を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居でありのちに墓穴として利用されたものであると断定されました。しかし大正末期に入って考古学の発展により各地で横穴の発見発掘の結果その出土品横穴の構造から横穴が古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として掘られたものであることが明らかにされ「住居説」がくつがえされることになりました。そして大正十二年「吉見百穴」はわが国の代表的な横穴墓群として国の重要な文化財として史跡に指定されました。戦時中横穴墓郡のある岩山に地下工場建設が行われ数十基の横穴がこわされましたが戦後、吉見百穴保存会の結成により積極的な保存、管理がなされ、その後、昭和三十八年吉見町に移管され「吉見百穴」は再び多くの人々に愛され、親しまれる史跡となりました。
吉見町
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